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りんごとパイナップル060909 [教会日誌]

 この日は、スペイン語を学ぶ日本人大学生Mさんがひさしぶりに顔を見せてくれました。礼拝まで時間があったので少し話しをしました。Mさんはスペイン語の手話に興味があるとのこと、おもしろい分野だなと思いました。
 同じく日本人大学生Tさんも一月ぶりくらいに登場。故郷の青森のおみやげにりんごのお菓子を持ってきてくれました。日本人のSさんからの熟れたパイナップルもあり、礼拝後のお茶の食卓(茶卓?)はおおにぎわいでした。Sさんは潜水士の資格を持つほどのダイバーでフィリピンの海にも潜るとのこと、パイナップルは海底みやげかと誰かが問い、大笑いをしました。
 ペルー人Cさんは二週間ほどドイツ旅行、といってもリッチな旅ではなく、チーズ工場での低賃金から蓄えたお金で格安切符を入手してのこと、ビザも厳しく、帰りの便の日付までしか滞在許可をもらえなかったそうです。


通訳060902 [教会日誌]

 台湾人女性Rさんは四カ国語を話します。中国語、日本語、英語、スペイン語。中国語が母語、日本語は台湾で覚え、日本の大学に留学して、日本語の教科書で英語とスペイン語を覚えたそうです。ちなみにおつれあいは、中国語を母語とする台湾系日本人(日本国籍)だそうです。
 さて、昨日の礼拝には在日韓国人大学生のK君が初参加。K君は日本語を母語とし、英語は高校卒業までにほぼ習得済み、今はスペイン語を学んでいます。
 ペルー人教会では初めての人が来ると全員自己紹介をしあいます。昨日のメンバーの話す言葉は、Hさんはスペイン語、英語、日本語、Pさんは日本語、スペイン語、Cさん、Mさん、Dさん、Tさんはスペイン語、日本語、上述のK君はスペイン語は始めたばかりなので日本語と英語、Rさんは四カ国語、そして、やはり昨日初めて来たペルー人Pさん一家は滞日一年ということでスペイン語だけでした。
 おもしろかったのは、K君がスペイン語を話せないので、スペイン語しか話さないPさんたちにわかるように、自分の自己紹介をスペイン語に通訳してくれるようにRさんに頼んだのですが、K君はなぜかRさんに英語で話しかけ、Rさんはそれをスペイン語になおしたことです。Rさんは日本語を話すのに、そして、K君の母語は日本語なのに、なぜか二人の間では英語が話されていました。
 これをおもしろがって、Pさんは少しスペイン語を話せるのに、Rさんに日本語で話し、それをスペイン語に通訳してもらっていました。スペイン語が母語のCさんまでもが、日本語で自己紹介しそれをRさんにスペイン語に通訳してもらおうとして、皆、大笑いでした。
 ちょっと、複雑な話しでしたが、おわかりいただけたでしょうか。それとも、通訳が必要ですか。


劇の反省20060826 [教会日誌]

 この土曜日は礼拝に来る人も少なく、お茶の時間に残ったのは三人でした。けれども、先日の劇についていろいろ話し合いました。沖縄からペルーに移住したTさんの家族やTさんを見て、ただ「移民の人は苦労したのですね」と述べるだけでなく、60~70歳代のTさんと同世代の人々には、自分達と同じ時代にTさんのような「もうひとつ」の人生もあったことを知り、そのことを通して自分達の人生もまた振り返り、徐々に語れるようになってほしい、という意見が出ました。また、若い人々にももっと劇や日系ペルー人移住労働者の存在や交わりに関心を持ってほしいという感想もありました。数年前と比べて、たしかに日本語会衆とペルー人メンバーの距離は縮まってきたけれども、まだ壁がある、それは、やはり、言葉なのか、それ以外の何かも大きいのか、そんな思いも語られました。


真夏の昼の劇の上演 [教会日誌]

 劇の上演をしました。内容についてはこの一つ前に書いた「真夏の昼の劇の練習」をごらんください。
 本番は20日(日)の午後1時。19日(土)の午後5時に集まって練習に励みました。会場の教会には夏休みのプログラムで子どもたちが泊まりに来ていて、練習を興味深そうに見たり、いろいろコメント(?)したりしていました。
 二回通し稽古をして、七時からはいつもの礼拝。礼拝後、子どもプログラムのお相伴にあずかってすいかをいただきました。八時半から最後の通し。それを見学していた日本人のおばあさんが、畑を耕す場面になると、突如皆と並んで鍬を扱う身振りを始めました。誰もそれを留めることなく、「一緒にやりますか」とKさんが声をかけるとうれしそうでした。
 いよいよ、20日の午後1時。来る予定にしていた役者が一人来ませんでしたが、もともと、練習に一度も来ていない人でしたので、影響はありませんでした。本番だけ来る人とも一緒に演技をしてしまう、来なければ来ないで、それでもOK。このアバウトさも劇団セロ・ウアチパらしい点です。
 劇を見に来てくれたのは、メンバーの家族、友人、教会の日本語メンバー、子どもたちなどでした。日本人、韓国人、ペルー人、チリ人・・・・・。教会の日本メンバーたちも劇の常連客で、セロ・ウアチパの作品はいくつも見てくれています。「この劇団のファンです」と言ってくれる方もおられました。また、今回の劇の主役(67才)と同世代の人も多く、それぞれ自分たちの歩みに思いを馳せていたようです。


真夏の昼の劇の練習060814 [教会日誌]

 土曜日の夜と日曜日の夕方、劇の練習をしました。本番は20日、日曜日の午後1時からです。この劇は日系ペルー人T.A.さんの半生を扱ったもので、すでに5月に路上演劇祭で上演しています。けれども、今回は、役者が少し変わりました。中南米に就職したSくんに代わって、日本人大学生Mさん、在日台湾人Rさんが初参加です。MさんもRさんは演劇初体験とは思えない演技ぶりで、練習は順調に進みました。
 ストーリーは1906年ペルー移住を呼びかけるチラシが配られる沖縄の町から始まります。ゆたかな土地が与えられることを夢見て三ヶ月の船旅、そこには家族を残し単身で移住するTAさんのおじいさんの姿もありました。しかし、ペルーで待っていたものは、16時間にのぼる過酷な農作業でした。死者もでます。それにもかかわらず、おじいさんはお金を貯めて、日本に帰り、今度は、息子、つまり、TAさんのおとうさんがリマにわたり、やおやを始めます。
 そして、1930年代半ば頃、TAさんがリマで生まれます。やがて、戦争の開始。ペルーはアメリカと同盟を結んでいたため、日本人、日系人はスパイ容疑を向けられたり、アメリカの収容所に送られたりします。日系人のお店は略奪されたり、だまし取られたりします。
 TAさんの家族は首都リマを離れ、500キロ離れた北部の町に移ります。TAさん二歳の時、おかあさんが亡くなります。TAさんはおかあさんが教えてくれた「夕焼け小焼け」をくちずさみます。五才の時兄の一人が亡くなります。おとうさんはTAさんをなぐさめるために映画に連れていってくれます。六歳の時、兄の一人が仕事を探しにリマに移ります。つぎつぎと家族がいなくなる悲しみをTAさんはこらえます。
 しばらくして、おとうさんは再婚します。お姉さんは新しいおかあさんとの関係を心配して家を出て、リマに向かいます。新しいおかあさんは自分の子どもにはたくさん買い与えますが、TAさんは無視されます。そのことでおとうさんとおかあさんの間にけんかが起こります。
 TAさんは九才の時、おじさんのお店で働いて自分で小遣いをかせぐことにします。それから、十二年、二十一さいになったTAさんは、これまで働いて貯めたお金をもとに、リマに出て新しい生活を始めようと決めます。勉強もしたい、仕事もしたいという希望を胸に旅立ちます。


夢と祈り20060729 [教会日誌]

 この日は礼拝の開始時間になってもペルー人メンバーが顔を見せなかったので、日本人のOさんとチリ人のHさんと少しお喋りをして待っていました。Oさんの夢は将来外国で生活すること、そのためにスペイン語を勉強中とのことでした。Hさんは母語のスペイン語に加えて、英語と日本語も堪能です。どうやって習得したか尋ねてみると、十代の頃から本などで勉強していたとのこと。ヒアリングはどうしたのかとさらに訊くと、最初はわからなかったが徐々に慣れたとのこと、きっと語学の耳が非常に良いのでしょう。けれども、日本の各地の言葉には聴いてわからないものもあると言っていました。結局、礼拝は日本人二人とHさんの三人で始めることになり、聖書のお話しは日本語でしました。この礼拝では牧師一人が話すのではなく、会衆も感想や意見を述べるのですが、Hさんは流ちょうな日本語で話してくださいました。そして、お祈りも日本語でしようかと言ってくださいましたが、これは母語でするのが一番と思い、スペイン語で、と答えると、二人の日本人のために、ゆっくり、はっきり口を開けて、わかりやすい語彙で祈ってくださいました。


沖縄の旅20060723 [教会日誌]

 二泊三日で沖縄に行って来ました。総勢8名、日系ペルー人3名、台湾人1名、日本人4名の旅でした。主な目的は米軍基地という巨大な問題についてほんの少しでも知ること、そして、ウチナンチュー(沖縄の人)にルーツをもつ日系ペルー人とウチナンチューが知り合うことにありました。
 最初の日、9時発の飛行機に乗るのに空港に8時40分に着くというようなハプニングがありましたが無事機上の人となり、S教会のK牧師が待つ那覇空港に降り立つことができました。
 K牧師はこの四月に沖縄に赴任しましたが、それまでにも何度も沖縄を訪れておられ、沖縄事情に詳しい方です。まずは昼食をということで、古い民家を改造した沖縄そばのお店に連れていってもらいました。
 昼食後は沖縄南部にある平和祈念公園に行きました。20万人を越える戦死者のお名前が石に彫られていました。ペルー人教会の日系ペルー人たちと同じ苗字の名前もいくつもありました。
 続いては、今度は高速道路を使って二時間ほど北上し、辺野古の海に行きました。辺野古沖の海上に米軍基地を建設するという最初の計画は、「命を守る会」の人々らの命がけの行動によって阻止されましたが、今度は、近くのキャンプシュワブ沿岸に建設する計画が出されています。辺野古のテントでお話しをうかがったT牧師の「平和学習でもなく、基地反対でもなく、基地阻止だ」という言葉が重いです。
 夕方は南部に戻り、S教会の屋上でバーベキュー。スーパーで肉やビールを仕入れていくと、教会では教会の方々がおにぎりやデザート、サーターアンダギーなどを用意して待っていてくださいました。
 翌朝はS教会の聖書研究会に出席。いつもなら、K牧師の聖書講義と参加者の祈りがあるはずでしたが、この日はわたしたちのために時間を割いてくださいました。ウチナーグチ(沖縄の言葉)で讃美歌を歌い、S教会とペルー人教会双方が自己紹介した後、日系ペルー人Mさんの半生や劇団セロ・ウアチパの活動について聞いていただきました。S教会の皆さんから活発な質問をいただきました。また、ペルーについて前もって調べてきてくださった方もおられました。S教会の中には台湾出身の方もおられ、ペルー人教会の台湾人メンバーRさんと楽しそうに話しておられました。最後は、ウチナーグチとスペイン語で主の祈りを唱えました。
 午後はビーチに出かけ、ガラスボートに乗ったり泳いだりして過ごし、夕方、那覇のホテルに着きました。夜は八人で国際通りを散策、沖縄料理のお店でおいしいものをたくさんいただきました。
 今回はK牧師に全面的にお世話になりました。ほんとうにありがとうございました。これを機会に、また、何度もお訪ねしたいです。今度は、皆さんのお話をもっと聞かせていただき、また、わたしたちの劇もごらんいただきたいと思います。ニフェーデービル。


召命と資質20060715 [教会日誌]

お茶の時間にヴォカシオンということが話題になりました。ヴォカシオンとは英語のvocationと同様に「転職、資質、召命」などと訳されます。Cさんはかつて大学の建築科に学んだのですが、その時、ヴォカシオンを問われたというのです。わたしはそれを聞いて、建築家も召命感が問われるのかと思いました。召命感とは、牧師になるように神から召し出されているという認識のことです。牧師は、自分の選択や決心でなるのではなく、この召命感が大事だと言われています。Cさんの青年時代に、建築家になるためのヴォカシオンが問われたと聞いて、ペルーの人たちは、牧師や神父に限らず、職業選択の際は、それが神の召しかどうか、考えるのかと思いました。けれども、話を良く聞いてみると、建築家としての適性、資質のことのようでした。神からその職業に招かれている人はその適性と資質も神から与えられているということなのでしょうか。しかし、自分は牧師としての適性も資質もないけれども、ただ神がこの職を続けることを許してくださっておられることに感謝したい、と思うのはわたしだけではないでしょう。


共存の難しさ20060708 [教会日誌]

 最近、霊の降臨によって忘我状態になって祈ったり叫んだりすると言われているグループ(ペンテコステ派)の数人と一緒に礼拝を守ってきましたが、この土曜日は彼女たちはお休みでした。先々週、はじめてわたしたちの礼拝に参加して、先週は礼拝の一部でこのグループのやり方で祈りました。わたしたち前からいるメンバーとしては、「自分たちは忘我状態で祈ることはないが、ペンテコステ派の人々の信仰のあり方は尊重する」という姿勢でした。わたしたちはこのグループの人々と共存を目ざし、受け入れているつもりでした。
 しかし、もしかしたら、上で「 」の中に記したような姿勢が、この人々には、自分たちは受け入れられていない、という気持ちにさせたのかも知れません。口には出さなくても「自分たちは忘我状態にならないぞ」というわたしたちに取り囲まれては、ペンテコステ派の人々も先週の祈りはいつもの自分たち流にはできなかったのかもしれません。先週も記したように、前回の礼拝ではペンテコステ派の人々は忘我状態になりませんでした。後から、彼女たちも、あの礼拝堂では聖霊が降ってこない、と感じたのかも知れません。
 以上はすべて推測です。同じ礼拝堂での共存も良いし、また、彼女たちがもっとやりやすい場所を求めているのならそれも良いと思います。


さまざまな道20060701 [教会日誌]

最近来始めたJさんから「聖霊が降りてくるための讃美歌を歌いたい」という提案がありました。わたしたちは、聖霊については、幽霊のようなものが憑依したりする現象としては経験してきませんでした。むしろ、人生全体を道として神がゆるやかに柔軟に導いてくれる、その働きを聖霊と考えてきました。そのようなわたしたちにとってJさんの提案にはためらいがありましたが、とりあえず、一度やってみることにしました。JさんはCDの音楽にあわせて、両手を上げて、聖霊に呼びかける祈りを始めました。もしかしたら、Jさんの仲間の誰かが、不思議な言葉を語るなどのエクスタシー状態に入るのかなとも思いましたが、今回はそれは起こりませんでした。ただ、手をあげて音楽や祈りにあわせて体を揺らしていただけです。礼拝後、以前からのメンバーとお茶を飲みつつ話しました。Cさんは、「感情の高揚や忘我的現象と信仰は区別しなければならない。自分には感情の高揚現象に依存する礼拝はあわない」と言いました。けれども、「Jさんがそのような背景を持っていることは尊重する。否定はしない。しかし、わたしはわたしの信仰のあり方を維持する」と付け加えました。Cさんの言葉の中に、ペルーにおいて、日系と日系以外の両方の背景をもって生まれ育ち、そして、今、日本で生活する中で培われてきた、ゆたかでひろい精神を見ました。Hさんは言いました。「わたしは『主は道を創られる』という讃美歌が大好きだ。そして、この『道』は複数形だ」。


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